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02 セントヘレンズ火山:自然と科学と  

 アメリカ映画には、火山噴火をあつかったパニックものがあります。「ボルケーノ」や「ダンテズ・ピーク」、「ボルケーノ・インフェルノ」など、日本でも上映されたものも、いくつかあります。科学的に間違っているシーンがあって、地質学に携わっている者としては気になったこともあったのですが、火山パニック映画は、火山の怖さを、広く知らせるのに、十分な効果があったと思います。でも、現実の火山は、娯楽ではなく、本当の恐怖があります。架空の世界ではなく、本当の被害、けが人死人がでます。


図-1 セントヘレンズ火山のフォールスカラー画像(2000年8月8日観測のASTER/VNIRを用いて作成、カラー合成方法 RGB=バンド3,2,1)

 水の部分は黒色に、植物は赤色に、地肌の部分は水色にしています。水色の部分が火山 噴火の特徴を現しています。セントへレンズ火山の北側に開いた馬蹄形の火口や、火口か ら流れた土石流・泥流の跡(火山の北側から北西側に広がる灰色がかった部分)、ノー ス・フォーク・タートル川を流れ下り堆積した跡(水色の部分)などがよくわかります。

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図-2 セントヘレンズ火山鳥瞰画像(2000年8月8日観測のASTER/VNIRおよびDEMデータを用いて作成)

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 2000年8月8日に撮影されたTerra/ASTERデータから作成した鳥瞰図です。写真-4(a)とほぼ同じ方向から見ています。 画像中、水の部分は黒色に、植物は緑色に、植物に覆われていない部分は白色〜灰色に色づけしています。火口内の溶岩ドームや土石流、泥流の跡を見ることができます。

図-3 画像位置図

 意外かもしれませんが、アメリカ合衆国は、火山国でもあり、地震国でもあります。それは、ちょっと考えれば、誰もが思い当たることです。ハワイの火山、ロサンゼルスの大地震、サンアンドレス断層、イエローストーン国立公園の間欠泉など、火山と地震を象徴するものが、いくつもあるのです。火山国日本、地震国日本も、顔負けしそうなほど、有名なものがあるのです。

 アメリカ合衆国には、約65の活火山が知られていますちなみに、日本の活火山は、火山噴火予知連絡会では、最近、108個とされました。

 なかでも、アメリカ合衆国の太平洋海岸近くにあるカスケード(ワシントン州、オレゴン州、北カリフォルニア)は、アメリカ大陸でも、有数の火山地帯です。カスケード地域の北にあるセントヘレンズの噴火は、記憶に残るものでした。

 アメリカ合衆国、ワシントン州のセントへレンズは、1980年5月18日午前8時23分、マグネチュード5.0の地震とともに、激しい水蒸気爆発を起こしました。

 噴火により、山体の北側が、あっという間に消え去り、大きな馬蹄形カルデラが形成されました。山頂は、あっという間くずれ落ちました。その爆風は、山頂から28kmも離れたところにまでたっし、北側の約600平方kmの森林を壊滅させました。噴火の噴煙は、成層圏にも上がっていきました。

 噴火の熱は、雪や氷を融かし、土石流、泥流となって、ノース・フォーク・タートル川を流れくだり、ふもとには厚さ20mにおよぶ地層ができました。

 その後も、セントへレンズでは、12回以上の溶岩ドームの形成、そして崩壊がおこりました。火砕流も、繰り返されまた。1986年にやっと、セントヘレンズの火山活動は、おわりました。そして、馬蹄形カルデラの中には、溶岩ドームが形成されていました。溶岩ドームは、底面の直径1km、260mの高さに達するものとなっていました。

 1980年の噴火では、57名の人命が失われました。犠牲者のなかには、アメリカ合衆国地質調査所のジョンストン(David A. Johnston)が含まれていました。火山観測中の殉職でした。ジョンストン嶺観測所は、彼が殉職した地に建設されたもので、博物館として一般公開されています。しかし、なぜ、こんなにも多くの犠牲者を出してしまったのでしょう。

 セントヘレンズが活火山であることは知られていました。地質調査所では、1970年代にセントヘレンズは、過去数千年間、カスケード地域の火山で最も活発な活動をしていることを知っていました。過去600年間に、デイサイトというタイプのマグマが固まったドームを形成するような活動が、少なくとも3回あったことが、わかっていました。1857年の噴火では、北西側中腹のGoat Rockから安山岩質溶岩を流していました。ですから、活火山であることは、知られていたのです。

 噴火の予測がなかったわけではありません。カスケード地域では、セントヘレンズは、もっと高い確率で噴火するであろうと予測され、それも、近い将来(西暦2000年まで)に、噴火するであろうと予測されていました。また、地質調査所では、1980年から1986年にかけての度重なる噴火を、かなり正確に予測していました。

 噴火の予兆がなかったわけではありません。噴火の2ヶ月前の3月20日から、火山性地震が観測されていました。3月27日には、山頂ドームから最初の水蒸気爆発がありました。その後も、爆発を繰り返しながら、山体の北側がせりだしはじめました。それは、毎日2mずつほど変化していました。噴火の5月18日までに、その変化の量は、100mに達していました。長い期間にわたって、予兆現象があり、噴火の危険性がわかっていたのです。

 なのに多くの犠牲者を出しました。それは、予測を覆したものがあったからです。噴火と土石流の規模と威力などです。

 高速で、大規模な山体の崩壊することを岩屑なだれといいます(http://www.nagare.or.jp/mm/99/iizawa/japanese/intro0.htmに山体崩壊の動画あります)。高温の火山灰とガスの混合物の流れは、火砕流、あるいは火砕サージと呼ばれています。セントヘレンズの岩屑なだれと火砕流のスピードは、秒速35mという速さで、28kmの距離にまで達するのに10分もかかりませんでした。秒速35mとは、時速にすると126kmにもなります。火砕流をみてから、車で逃げようとしても、逃げ切れるものではないのです。日本の雲仙火山の1991年の噴火の犠牲者をだしたもの、このような火砕流でした。

 土石流も、大きな被害をもたらします。1980年にセントヘレンズ山で発生した土石流は、橋、建物、さらに材木運搬用のトラックなども、破壊しました。土石流は、マグマや岩石の破片と、河川や池の水、溶けた雪や氷が交じり合っておこります。土石流は、通りすぎたところを、根こそぎ、破壊していきます。土石流は、数時間のうちに数十kmを流れ下ります。1985年のコロンビア、ネバドデルルイズの1985年の噴火で起きた土石流では、23,000人以上の犠牲者をだし、おなじくコロンビア、ガレラス火山の1992年の噴火、日本では有珠山の1978年の噴火による泥流でも、犠牲者が出ています。

 1999年、私は、セントヘレンズ火山を訪れました。噴火後20年もたっているというのに、火山で倒れた木々が、いまだに倒れたままの姿をさらしていました。木は、噴火口と反対側に爆風でなぎ倒された状態のままとなっていました。そして、スピリッツ湖の湖面には、流れ込んだ大量の流木が浮かんだままでした。

 このような火山の噴火の様子が、ほとんど手を加えずに残されているのは、セントヘレンズ火山の周辺が、国立火山記念公園に指定されているからです。この公園は、火山の傷跡をそのままにして、火山という自然現象の脅威と、そこから学んだ教訓を常に思い出すため措置でしょう。

 科学は、多くの益をもたらし、現代社会は、科学なしには存続できません。しかし、科学は、万能ではありません。科学を過信してはいけないのです。火山、地震、台風などの自然現象を、科学は、まだ十分に解明できていません。そして予測も、まだ完全にはできないのです。そのような自然現象から教訓を学ぶときに、私たちは、手痛い代償を払わなければならないことがあります。まだまだ、私たちは自然を知らないのです。科学を過信せず、自然に謙虚に接する必要があことを、セントヘレンズは、私に教えてくれたのです。

2003年2月1日

 

図-4(a) セントヘレンズ火口

 セントヘレンズの火口を北側から見たものです。北向きに開いた馬蹄形のクレーターと その中のドーム状の中央火口丘がはっきりと見えます。火口周辺からは、まだ、水蒸気が出ています。たなびいた水蒸気が、かすみのように見えています。

図-4(b) 爆風によりなぎ倒された木

 1980年5月18日の大爆発によって、激しい爆風は、火口から北側600平方kmの山林の木を なぎ倒しました。木は爆風がふいた方向に規則正しく並んで、倒れています。木の残骸は、 今も生々しく残っています。いや、残されているのです。

図-4(c) セントヘレンズ遠景

 セントへレンズから流れ出るフォーク・タートル川の下流からみると、軽石平原、流山 (岩屑なだれ)、二次水蒸気爆発のあと、堰止湖など、火山噴火によって形成される地形 が、見ることができます。この写真でも、そのいくつかが見えます。

図-1,2についてはJSSが図-4および文章に関しては札幌学院大学小出良幸に著作権(所有権)が帰属いたします。転用等の際はJSSの許可が必要です。


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